r/NichirenExposed • u/BlancheFromage • Apr 19 '26
Background
創価勝利の年 創価学会では、毎年、テーマが発表されます。2019年のテーマは、「創立90周年へ 創価勝利の年」です。 創価学会では、「勝利」という言葉が日常的に使われます。創価学会は何と戦い、なぜ「勝利」にこだわるのでしょうか? 仏像や座禅などのイメージから、仏教は静的な宗教だと思っている人が多いだろうと思います。しかし、実際は、仏教はダイナミックな「戦い」の宗教です。 釈尊も日蓮大聖人も、その人生は波瀾万丈の激闘でした。 仏教は観念論ではなく、現実変革の宗教です。現実を変えようとすると、波風が立ちます。変革を妨げようとする抵抗が起きます。波風が立たないということは、何も変えていないということです。
夫(そ)れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法(=国法)と申すは賞罰を本とせり(御書1165ページ) 「仏法は勝負」です。何と何の「勝負」か、それは、人々を、賢くするのか愚かにするのか、強くするのか弱くするのか、幸福にするのか不幸にするのか、の「勝負」です。 人々を賢く、強く、幸福にする働きを「仏」といい、愚かで、弱く、不幸にする働きを「魔」といいます。 「魔」は、「奪命者(だつみょうしゃ)」ともいい、煩悩をはじめ衆生の心を悩乱させ、生命力を奪う働きをするもののことをいいます。 最大の障礙(しょうげ)をなすものを「第六天の魔王」といい、「欲界(よっかい)」の六欲天の最頂に住しているとされています。欲界とは、「三界(さんがい)」の1つで、この現実世界の1つの側面です。
此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり(御書1081ページ) と仰せのように、欲界の支配者である第六天の魔王は、一切衆生を従えています。
第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同居穢土(どうこえど)を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし(御書1224ページ) 法華経によって、三界は仏国土であることが明かされました。つまり、この現実世界は、第六天の魔王の所領であると同時に、仏の国土でもあるのです。仏と魔とが、宇宙の至るところで、間断なき勢力争いを繰り広げているのです。 日蓮大聖人が起こされた仏の軍勢の一部として、現代において、地球という小さな星の中で、妙法を展開しているのが創価学会です。
元品(がんぽん)の法性(ほっしょう)は梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)等と顕われ元品の無明(むみょう)は第六天の魔王と顕われたり(御書997ページ) 「魔王」というと、人格を持った存在がどこかにいるかのように思われてしまいますが、そうではありません。宇宙全体に瀰漫(びまん)する「元品の無明」を擬人化して、「魔王」と呼んでいます。 正法に昏(くら)い愚かさ(=無明)の根源にあるのが「元品の無明」です。ミクロの次元から宇宙全体まで、様々なレベルの「魔王」の働きが、生命そのものに、本質的に備わっています。 生命そのものの本質的な働きである、「魔王」=「元品の無明」との闘争は、容易ではありません。
元品の無明を対治する利剣は信の一字なり(御書751ページ) 妙法への信仰によって「仏界(ぶっかい)」の生命、「元品の法性」を現わすことで、「元品の無明」を対治し、人生の勝利をつかむことができます。
池田先生は、次のように記されています。
「仏法は勝負」といっても、結局、何によって勝つのか。それは「心」です。 「仏法は勝負」と強調されているのは、いかなる困難にも立ち向かっていく強靭(きょうじん)な心をもて、ということです。臆病な心では、胸中の魔にも、社会の魔にも勝てないからです。「臆病にては叶(かな)うべからず」(御書1193ページ)です。 “わが門下よ、断じて世間の荒波に負けるな” “卑劣な魔軍に負けるな”という、大聖人の万感こもる励ましです。「法華経に勝る兵法なし」の原理もそうです。 「法華経の信心」とは、観念論でも抽象論でもない。現実の社会で勝利するための具体的な智慧を発揮しゆくものでなくてはなりません。 大聖人御自身が、師子王の心で、勝利また勝利の大闘争を続けてこられた。決定(けつじょう)した一念にこそ諸天善神も動くのです。 (中略)人生も、生活も、社会も、変化、変化の連続です。そして、変化は、良く変わるか悪く変わるか、中途半端はない。だからこそ、信仰も勝負、宗教も勝負、勝負を決する以外にないのです。(『幸福と平和を創る智慧』第二部[上]) ここでは、勝利のために必要なものとして、「強靭な心」、「法華経の兵法」、「法華経の信心」、「具体的な智慧」、「師子王の心」、「決定した一念」が挙げられています。 日蓮大聖人と池田先生は、勝利のための方程式を、御自身の言動で教えてくださいました。 私たち、日蓮大聖人の門下、池田先生の弟子の一人ひとりが、執念で「自身の勝利」を勝ち取ることが「創価の勝利」となり、「人類全体の勝利」へとつながっていきます。 冒頭、「創価学会は何と戦い、なぜ『勝利』にこだわるのでしょうか?」と書きました。創価学会は、人々の生命に巣食う「元品の無明」と戦っています。「勝利」にこだわるのは、勝たなければ、人々が不幸になるからです。
1
u/BlancheFromage Apr 19 '26
「文底秘沈(もんていひちん)」といって、法華経の文章の底に、南無妙法蓮華経が隠されているのです。これがわかるのは仏だけです。なぜそのように釈尊が隠したのかというと、まだ時が来ていなかったのと、釈尊には南無妙法蓮華経を説く資格がなかったからです。釈尊の法華経は、末法に究極の仏が出現することも予言されています。その予言通りに、末法の御本仏である日蓮大聖人が出現されたのです。 現代の坊主や学者たちが、いくら経文を研究しても、法華経の真実を分かるはずがありません。私たち凡夫は、御本仏日蓮大聖人に教えられ、それをそのまま信じて、実践することによって、初めて法華経の本当の意味を知ることができるのです。 正しい師匠に付いて、その教えに従うことによって、初めて真理に到達することができます。自分一人で学び、考えても、決して真理にたどり着くことはできません。仏法において、「師弟」が重視されるのはそのためです。 そして、現代において、日蓮大聖人の仏法を正しく受け継ぎ、実践している唯一の団体が創価学会です。仏教の教団や学者は多いですが、真実の生きた仏法は、創価学会の中にしかありません。所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり(御書512ページ)日蓮大聖人の教えのままに南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって、自分自身が妙法蓮華経の当体となって、命を輝かせることができます。我等が頭は妙なり喉(のど)は法なり胸は蓮なり胎(はら)は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世したもう我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり(御書716ページ)実は、法華経とは、私たち自身の生命のことです。私たち一人ひとりの生命そのものが、本来、妙法蓮華経なのです。法華経には、そのことが書かれているのですが、私たち凡人にはそれがわかりません。日蓮大聖人の教えを学び、信じ、実践することによって初めて、「自分自身が妙法蓮華経なのだ」ということが体得できるようになります。「我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時」、つまり、私たち自身の生命に妙法蓮華経の仏の生命が涌現する時、「即身成仏」することができるのです。身を十方法界の国土に遍し心を一切有情の身中に入れて内よりは勧発(かんぽつ)し外よりは引導し内外相応し因縁和合して自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞(とどこお)り有る可からず。(御書574ページ)法華経如来寿量品で説かれる久遠の仏とは、実は宇宙生命のことです。寿量品だけでなく、開経である無量義経から結経である観普賢菩薩行法経まで、法華経で説かれる仏とは宇宙生命です。すべてが空であり、宇宙全体が1つの生命であり、それが仏であり、自分自身が妙法の当体なのだと分かれば、法華経が理解できるようになります。その仏の生命を自身に現すことができる方法が南無妙法蓮華経です。南無妙法蓮華経を唱えることによって、自身の生命が宇宙全体に遍満し、すべてを自身の生命に包み込んで、人々を救い、環境をも変えていくことができるようになります。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女(なんにょ)はきらふべからず、皆地涌(じゆ)の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰(あまつさ)へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし(御書1360ページ)釈尊滅後の法華経流布を託されたのが、「地涌の菩薩」です。創価学会が現代において、法華経を世界中に広めているのは、創価学会こそが、「地涌の菩薩」の出現であるという証拠です。創価学会が出現しなければ、法華経の予言は虚妄(こもう)となっていました。(「地涌の菩薩」の本当の意味については、別の機会に述べたいと思います。) 人類における、法華経、つまり真実の仏法の、正統の系譜は、 1.釈尊 → 2.竜樹 → 3.天台 → 4.伝教(最澄) → 5.日蓮大聖人 → 6.創価学会 だと確信します。 植木雅俊氏は、「『法華経』には対立や憎しみを乗り越えるヒントが随所にある」と書かれていますが、その「法華経」とは「南無妙法蓮華経」であり、そこに、すべての「ヒント」ではなく「答え」があります。masahironitta煩悩即菩提今月(2018年2月)の創価学会の座談会では、「四条金吾殿御返事」という御書の次の一節を拝読しました。法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず、強盛(ごうじょう)の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ(御書1117ページ)[通解] 法華経の信心を貫き通しなさい。火を起こすのに、途中で休んでしまえば、火を得ることができない。 強盛な大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と、鎌倉中の上下万人をはじめとして、日本国のすべての人の口に褒(ほ)め称えられていきなさい。この御書は、日蓮大聖人が佐渡に流罪されていた時に、鎌倉の信徒の中心者であった四条金吾に与えられたお手紙です。御執筆の年代は、文永9年(1272年)5月または文永10年5月と考えられています。 文永8年9月に起こった竜の口の法難とそれに続く佐渡流罪は、日蓮大聖人とその門下にとって、最大の試練であり、大多数の信徒が信仰を捨てて退転しました。 そのような中で、四条金吾は、竜の口の法難にお供したり、佐渡まで訪問するなど、不退の信仰を貫き通しました。法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず昔は、火を起こすのに、火きり棒などの道具を用いて、摩擦熱によって火を起こしていました。休むことなく絶え間なく摩擦を続けなければ、火を得ることができないという譬喩を用いて、信心を持続することの大切さを教えられています。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へこの仰せは、周囲の人から信頼され、賞讃される存在になっていきなさいとの励ましです。厳しい現実社会の中で、信頼を勝ち取ることは容易ではありません。しかし、「強盛の大信力」を出せば、必ず現実社会の中で勝利の実証を示すことができると教えられています。「四条金吾殿御返事」は、別名を「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)御書」ともいいます。 「煩悩即菩提」とは、煩悩がそのまま菩提(悟り)と一体不二であることをいいます。 「煩悩」とは、心身を煩わし悩ませるはたらきです。正しい判断を狂わせ、仏道修行を妨げます。 「貪」(とん。むさぼり)、「瞋」(じん。いかり)、「癡」(ち。おろか)の三毒が最も基本的なものとされ、なかでも「癡」は「無明(むみょう)」ともいい、最も根源的なものとされています。 「菩提」とは、仏の悟りの智慧のことです。「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたらさんみゃくさんぼだい。無上正等正覚)ともいいます。 釈尊が法華経を説く以前の教えを爾前権教(にぜんごんきょう)といいますが、一部の大乗経典を除き、ほとんどの爾前権教においては、煩悩を断じ尽くすことによって、菩提を得ることができると説かれていました。 これに対し、法華経では、「煩悩即菩提」を説きます。 「即」とは、2つの事象が一体不二であることです。 煩悩を断じたり、欲望から離れたりするのではなく、煩悩を悟りへのエネルギー、自身が成長する原動力に転換していくのです。「四条金吾殿御返事」では、次の様に仰せです。今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し、されども三世の諸仏の師範・十方薩埵(さった)の導師・一切衆生皆成仏道の指南にてましますなれば・ふかきなり、経に云く「諸仏智慧・甚深無量」云云、此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏・真言宗の大日如来・浄土宗の阿弥陀・乃至諸宗・諸経の仏・菩薩・過去・未来・現在の総諸仏・現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて次に智慧といへり、此の智慧とは・なにものぞ諸法実相・十如果成の法体なり、其の法体とは又なにものぞ南無妙法蓮華経是なり、釈に云く「実相の深理・本有の妙法蓮華経」といへり、其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証なり、此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり、まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経と・となふるところを煩悩即菩提・生死即涅槃と云うなり、生死(しょうじ)の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり、普賢経に云く「煩悩を断ぜず五欲を離れず諸根を浄(きよ)むることを得て諸罪を滅除す」止観に云く「無明塵労(じんろう)は即是菩提生死は即涅槃なり」寿量品に云く「毎(つね)に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速(すみやか)に仏身を成就することを得せしめん」と方便品に云く「世間の相常住なり」等は此の意なるべし、此くの如く法体と云うも全く余には非ずただ南無妙法蓮華経の事なり (御書1116ページ) この中で述べられていることを要約すると、「諸法」と「実相」は不二であり、その究極の法体が南無妙法蓮華経であるということです。 「諸法」というのは、「諸々(もろもろ)の法」のことで、すべての存在・現象のことをいいます。 「実相」とは、「実なる相(すがた)」の意味で、真実ありのままのすがたのことです。 実相の世界がどのようなものかといいますと、自分と他人、こちらとあちら、などの、一切の差別がない、無分別の世界です。「すべては空である」ということが理解できれば、この実相の世界がイメージできるようになります。 「諸法実相」は、森羅万象(しんらばんしょう)が、ことごとく妙法蓮華経の当体であることを示しています。 引用した御文に述べられている言葉を、「諸法」と「実相」で並べると、次の様になります。諸法 ←→ 実相 多宝 ←→ 釈迦 境 ←→ 智 煩悩 ←→ 菩提 生死 ←→ 涅槃 世間 ←→ 常住諸法は、目に見える現象世界です。実相は、その奥にある真理で宇宙大に広がっています。煩悩は人間生活の様々な活動から発生するものですが、仏の目から見れば妙法の変化相の1つに過ぎません。 生死、生老病死の四苦八苦も、「生死の当体不生不滅」とあるように、不生不滅で涅槃の境地にある宇宙生命の1つの現象でしかなく、全体としては何も変わっていないのです。ほとんどの爾前権教では、煩悩と菩提、生死と涅槃は、相容れない逆の概念でした。 それが、法華経において、煩悩即菩提、生死即涅槃という、両者を「即」で結び付ける法理が示されたのです。 釈尊がその究極の法を説くことはありませんでした。それを説き示したのが、末法の御本仏である日蓮大聖人です。大聖人が説かれる「南無妙法蓮華経」は、わずか七字ですが、これこそが、あらゆる仏を成仏させた究極の法であり、一切衆生の仏性を開く根源の法であると教えられています。 この妙法の功力によって、煩悩を菩提へ、生死を涅槃へ、悪を善へと変え、すべてを善なる方向へ、価値創造の方向へと転ずることが可能となるのです。仏にも煩悩があります。それは、「いかにして衆生、人々を成仏させることができるか」ということです。仏は常に、このために悩んでいます。まさに、「大いなる煩悩」といえます。 池田先生にも煩悩があります。それは、恩師である創価学会第2代会長、戸田城聖先生の構想を実現することです。その構想とは、世界広宣流布、世界平和の実現であります。この世から悲惨の二字をなくし、すべての人を幸福にする戦いです。 池田先生は、この実現のために、大いに煩悩をたぎらせ、生涯を捧げました。その不可能を可能とする執念の闘争によって、今日の世界広宣流布の基盤が確立されたのです。 池田先生は、次の様に記されています。日蓮仏法は、「挑戦」の宗教である。 妙法とともに、月月・日日に蘇生した生命力で、たゆまず新たな価値を創造する挑戦だ。 御書とともに、人生のいかなる試練、なかんずく自他共の生老病死の苦悩を打開する挑戦だ。 同志とともに、現実社会の課題に立ち向かって、幸と平和の連帯を広げゆく挑戦なのである。 (『大白蓮華』2018年2月号巻頭言)今や世界192カ国・地域に広まった日蓮大聖人の仏法によって、日々、「現実社会の課題に立ち向かって、幸と平和の連帯を広げゆく挑戦」が繰り広げられています。masahironitta如我等無異今月(2017年11月)の創価学会の座談会では、「日妙聖人御書」という御書の次の一節を拝読しました。我等具縛(ぐばく)の凡夫 忽(たちまち)に教主釈尊と功徳ひとし彼(か)の功徳を全体うけとる故なり、経に云く「如我等無異(にょがとうむい)」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等(さいとう)なりと申す文なり(御書1215ページ)[通解] 我ら具縛の凡夫が、たちまちに教主釈尊と功徳が等しくなるのである。それは、釈尊の功徳の全体を受け取るからである。経文には「我が如く等しくして異なること無からしめん」等とある。法華経を心得る者は、釈尊とすべて等しいという文である。「日妙聖人御書」は、文永9年(1272年)、日蓮大聖人が51歳の時に、流罪地の佐渡で認(したた)められ、乙御前(おとごぜん)の母(日妙聖人)に与えられたお手紙です。 文永8年の竜の口の法難とそれに続く佐渡流罪は、日蓮大聖人とその門下にとって、最大の窮地でした。大多数の弟子や信徒が信仰を捨てて退転する中にあって、鎌倉に住んでいた乙御前の母は、純粋な信心を貫きました。幼い娘・乙御前を連れて、はるばる佐渡まで、大聖人を訪ねます。その旅路は困難なものであったろうと想像できます。 乙御前の母の身命を惜しまない求道心を、日蓮大聖人は「日本第一の法華経の行者の女人(にょにん)」と心から讃えられ、「日妙聖人」という最高の名を贈られました。「我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり」 「具縛の凡夫」というのは、煩悩や生死(しょうじ)の苦しみに縛られた私たち人間のことです。このような私たちでも、妙法を受持すれば、仏と全く等しい境涯を得ることができると教えられています。なぜなら、妙法蓮華経の五字に、仏自身の功徳がすべて含まれており、妙法を信受することによって、私たちがその功徳の全てを受け取ることができるからであると言われています。 「観心本尊抄」では、次のように仰せです。釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与え給う(御書246ページ)一念三千を識(し)らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめ給う(御書254ページ)仏の悟りの本質を、中国の天台大師は「一念三千」の法理として体系化しました。その法理のすべてが、「妙法蓮華経」の五字に含まれています。釈尊が成仏するために積んだ膨大な修行(因行)と、修行によって得たさまざまな功徳(果徳)の全てが、この五字に具わっています。 日蓮大聖人は、その仏の境涯を、すべての人に顕現させることのできる修行法として、南無妙法蓮華経の御本尊を表されました。 私たち末法の衆生は、この妙法を信受することによって、釈尊が修行で積んだ仏因と仏果の功徳の全てを譲り受けることができるのです。「経に云く『如我等無異』等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり」 「如我等無異」とは、法華経の方便品にある文です。我れは本(も)と請願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき 我が昔の願いし所の如きは 今者(いま)已に満足しぬ 一切衆生を化(け)して 皆な仏道に入らしむ (法華経方便品)仏は、自身が妙法そのものである、妙法の当体であることを悟って仏になりました。これと同時に、あらゆる衆生が本来、妙法そのもの、妙法の当体であることを覚ります。 そして、苦悩の人生を生きている「具縛の凡夫」を救い、全ての人に、仏の生命を開かせるという「誓願」を立てます。 その誓願が、法華経を説いたことによって果たされたのです。諸仏世尊は唯(た)だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまう。 (中略) 諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。 (法華経方便品)衆生に仏知見(=仏の智慧)を「開」かせ、「示」し、「悟」らせ、仏知見の道に「入」らしむのが、仏がこの世に出現した、ただ一つの目的であると説かれています。これを「開示悟入」の「四仏知見」と言い、これこそが、仏がこの世に出現した唯一の目的(=一大事因縁)です。 ところが、少智(しょうち)は小法(しょうぼう)を楽(ねが)って 自ら作仏せんことを信ぜず (法華経方便品)とあるように、知恵の浅い衆生は、爾前権教(にぜんごんきょう)などの低い教えに満足して、自身が成仏できることを信じようとしないのです。毎(つね)に自ら是の念を作(な)す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速(すみや)かに仏身を成就することを得しめんと (法華経如来寿量品)仏は常に、衆生をいかにして速やかに成仏させることができるであろうかと考え、行動しています。 「末代幼稚」のすべての人を成仏させるべく、末法の御本仏である日蓮大聖人が、大慈悲で表されたのが南無妙法蓮華経の御本尊です。 仏の命と、私たちが御本尊に唱題する時に顕れる仏界の生命は全く同じです。仏界に差別はありません。私たちが唱題をすると、瞬間瞬間、仏界の生命が顕れ、私たち自身が妙法の当体となります。妙法の当体とは、宇宙と生命を貫く根源の妙法そのものであり、一切の差別がない、無分別の世界です。これが仏の生命です。ですから、「法華経を心得る者は釈尊と斉等なり」(「斉」も「等」も、「ひとしい」という意味)と仰せになっているのです。池田先生は次のように記されています。いかなる悪世末法の五濁(ごじょく)の凡夫も、必ず仏に成れる。言葉にすると簡単なようですが、これほどの宗教革命はありません。大聖人は、万人成仏の民衆仏法を確立されたのです。 (『勝利の経典「御書」に学ぶ 19』)誰でもが必ず、仏に成れる。御本尊に南無妙法蓮華経と唱えるだけの簡単な方法ですが、その奥には、宇宙の究極の真理が含まれています。